二月十一日、東京茶道会主催 招待茶会が音羽護国寺において開催されました。東京の各流派の宗匠方が釜を掛け、江戸千家では宗雪宗匠が牡丹の間を担当しました。
真言宗豊山派大本山護国寺は、天和元年(一六八一)五代将軍徳川綱吉が、生母桂昌院の願いにより創建した祈願寺で、お参りになる徳川家の方々の休憩の場だったともいわれる牡丹の間。床には徳川吉宗の書状がかけられました。舶来の九官鳥について家来とやりとりする日常の断片で、この掛物を中心に、この日の茶室の設え(風炉の逆勝手)、などが席での話題となりました。
茶室の設えについて
牡丹の間は、床の間を正面にして、左側には廊下がありその先に牡丹を植栽してある庭が広がっている。一方右側は勝手や水屋のある亭主側の領域。したがって点前座は右側に、客の席は左側に設けるのが自然と考えて、風炉の逆勝手の設えとした。
又、床の掛け物や花は、皆で眺めながら時をすごす最も大事な場であり、床をふさぐように客を座らせるのは大寄せ茶会の悪習と考えて、今回のような設えとした。
【会 記】 風炉逆勝手薄茶席
床 徳川吉宗公 消息
九官鳥 云々
花入 手付籠
花 牡丹
香合 琉球塗
書院 青貝双龍紋 大盆 琉球時代
風炉先 桑市松紋
風炉釜 不白好菊桐紋 治郎兵衛造
棚 好元禄棚
水指 志土呂
薄器 瓢紋 平棗
勝軍木庵作
茶碗 御本 玄悦手
替 御室 締縄飾り
〃 朝日 筒
茶杓 原叟作 共筒 銘かくれかさ
建水 塗曲
蓋置 竹形 因久山
御茶 星峰 八女星野製茶園
御菓子 下萌え 越後屋若狭
器 紀州瑞芝窯 牡丹紋
替 白磁一双 快示作
白磁一双 快示作
徳川吉宗公 消息 九官鳥 云々
この書状については、江戸千家会報「ひとゝき草」145号の
増田孝先生の連載「手紙に見る茶の湯」 ─徳川吉宗と九官鳥─
で取り上げています。
徳川吉宗と不白
紀伊藩主だった徳川吉宗は享保元年第八代将軍に就任する。江戸の茶の湯は織部、遠州、石州といった武家茶道が主流であったなか、吉宗と紀伊藩の茶の湯指南を務めたのは千家六代原叟覚々斎であった。不白の主君となる水野忠昭は紀伊藩の江戸詰家老として千家流の指導者が要請される流れを受け、不白を京都の千家如心斎の元に修業に向かわせた。後に不白は江戸に帰任し、水野家の茶道、紀伊藩の接待係として千家流の茶の湯を江戸に広めることになる。
吉宗の将軍就任は茶人川上不白の誕生の大きな契機となった。
【釈文】
きうくハん、新しきかご無之候共、
くるしからず候。古キ籠のまゝ
にて、只今廻し可申候。新しき
かご江者、明後日入替候間、其趣に
心得可申事。
河内守江可相渡事
徳川吉宗
(貞享元(1684)年~宝暦元(1751)年)
五代紀伊藩主 宝永二年 22歳
八代将軍 享保元年 33歳
隠居 延享二年 62歳
逝去 宝暦元年 68歳