玉林院 森玉雲和尚
家元による供茶
大龍宗丈筆 芦鷺和歌二首
式典 花月の間
一 読経 森 玉雲和尚
一 供茶 川上宗雪
一 講話 川上宗康
午後
一 点心 於 教場
一 呈茶 口切り茶「星の奥」
八女星野製茶園
菓子 「空也餅」
銀座空也
一 薄茶 展示席 蓮華庵
花月の間 床 不白筆三幅対 「假 空 中」 不白塑像 前に三具足 呂宋真壺「南山」不白旧蔵 脇 大龍宗丈筆 芦鷺和歌二首 一円庵 床 金銀交書 平安時代 妙法蓮華経 教 場 床 池上秀畝筆 落雁図 蓮華庵 床 烏丸光廣卿 消息 嵐山紅葉云々
烏丸光廣卿 消息
呂宋真「南山」
『不白筆記』は誰のために、何を目的として書かれたものであろうか。
如心斎在世中、師のもとで体験したことを不白は(啐啄󠄁斎誕生前から)覚え書きとして自分自身の為に書き記していたと思われる。特に茶事交流などの体験談は具体的であり臨場感があふれている。
こうした覚え書きを基にして、如心斎没後にあらためて内容を年代順ではなくテーマごとに大まかに分類し、また江戸に移ってから培われた自己の茶道論を加味しながら一冊の茶書としてまとめたのが『不白筆記』となる。
如心斎が亡くなる前後に不白は大きな転換期を迎えていた。自らの要望かどうか判らぬが、不白は江戸に帰任しなければならなかった。
その頃、不白が強い気概をもって書いた一文が『不白筆記』に記載されている。
種熟達、で始まる文章で、種は土の内、熟は木に成り、達は花実が揃うものである。前に書いた守破離も是れ成るべし、と記しているが、種熟達との意味の違いには不白はこだわっていない。そして三躰揃う事が無ければ皆悪し、という。
この花実揃いたる茶の湯を(不白に)開かせんために(本誌136号には〈啐啄󠄁斎に〉と書
きましたが訂正します)、如心斎は予(不白)を後見として京都に招かれたのだけれども仕官の上叶えることができなかった。残念だけれども時節が至らなかった。如心斎は間もなく亡くなる。
この種熟達の一文の中には「書置」のことが書かれている。この「書置」というのは、如心斎から当時八歳の与太郎宗員(後の啐啄󠄁斎)宛に書かれた遺言状のことである。如心斎が亡くなる一ヶ月半前に書かれたものである。いずれ家元となる上での心得が記されている。
内容は、第一に古法を大切にすること、新法は用いてはならない。そして茶道は一燈宗室(如心斎の弟・裏千家八世 不白と同年齢)に習うこと。その他手習い禅学は玉林院にて学ぶ事、等々である。
ところで不白の書いた種熟達の一文の中には、この「書置」の中に予(不白)がことは一字もナシ、とある。一燈とは立場が異なるし当然のことと思われるが、如心斎から弟子として誰よりも信頼されていると思っていた不白は自分の事が「書置」に何も書かれていなかったということにはさぞや落胆したのではなかったか。それでも「書置」に入らぬほどの深い信頼をもっていただいた御恩を思い、禅の同行(玉林院の常楽庵参禅)を有り難い事と記している。
如心斎が生前いちばん気掛かりであったのは与太郎(宗員)のことであった。不白は幼少の頃から、病気がちの師になり代わって与太郎を養育し守り立てた。不白は師の没後しばらく京都に滞在している。
如心斎没後、不白の千家の中での立ち位置も難しかったことと思うが、如心斎の恩に報いる気持ちは強く持ち続けていた。この頃から不白は啐啄󠄁斎の後見人としての覚悟が固められてきたのではないか。啐啄󠄁斎という号も不白が望み、大徳寺(無学宗衍)より名付けられた。
江戸で活動し始めた不白は、啐啄󠄁斎に頻繁に会える訳では無い。『不白筆記』はそのような状況の中で書き記され啐啄󠄁斎に贈られた。
時期は定かではない。若い啐啄󠄁斎にはいささか難しい内容である。一方、不白と啐啄󠄁斎の関係ならではの厳しい助言も多く見られる。これから啐啄󠄁斎が宗匠となる上で座右の書として役立たせるように贈られたものであろう。
茶の湯も型から入らざるを得なくなっていた時代。如心斎と不白。立場と主張に異なるものがあっても、それを乗り越えようとしたことでは、師弟共通の思いがあった。それが『不白筆記』という一冊の茶書に結実したのではないか。