流祖不白は1719年に現在の和歌山県新宮市に生まれ、今年は丁度三百年。水野家は紀伊藩の江戸詰家老だったが、その家臣である不白は、千家の茶を学ぶために京都に派遣された。表千家如心斎に入門して16年の修業を経、江戸に千家の茶の湯をもたらすことになる。
宗匠は、如心斎と不白が大徳寺玉林院に参禅し、大龍和尚からそれぞれ賜った「天然」「孤峰」の意味から二人の性格の違いなどにも触れ、
川上宗雪宗匠
不白の江戸での活躍は、紀伊藩の吉宗が将軍となり、その後田沼意次が中央政権で実権を握った事が背景にあるという推測も述べられた。
そういう茶の湯の活動の中で不白は多くの茶会記を残している。茶会記には、日付、場所、客組、床の掛物、釜、花入などの道具組み、そしてお向、煮物、吸物といった料理の品々が記される。
例えば、寛保四年、正月四日、不審庵で不白は亭主を務め、如心斎と堀内仙鶴、多田宗掬を招いた。師が茶室や道具を提供して不白に茶事を学ばせているのである。今も表千家に伝わる掛物や茶碗も用いられ、師や先輩を相手にする二十六歳の不白。
茶会記は過去の記録でも、読みこんでいくと数百年前と今が時空を超え、時にはその茶事に同席しているかのような気持ちになるという。茶会記というものが如何に興味深く面白いものであるかを、家元は終始熱く語られた。
今年、中央公論新社より発行される『川上不白茶会記集』を是非読んで、根津美術館の展覧会と合わせ、不白の感性に触れてほしい、と結ばれた。