清水文雅上人のお話
不白さんに遭った旅
祝 新宮同好会旗挙げ
足立淳雪
書写妙法蓮華経印塔
新宮同好会による呈茶
名古屋から新宮への紀勢西線・三時間半の車中で、家元と、不白さんはあの時代に、こんなに遠いところからよく京や江戸を往き来したものですねえ、などと話しました。
ところが新宮に着き、新緑の美しい丹鶴城に登って、熊野川の河港を見下ろしながらご案内を伺うと、なるほどと納得しました。江戸時代、水野藩は備長炭の大きな産地で、江戸への供給のため、ここから毎日大船が出航していたそうです。河口を出て、熊野灘から太平洋を経れば江戸は真っ直ぐです。
不白さんは、あの綿密な『不白筆記』を恩師の遺児に遺したことから誠実な方だったと尊敬していましたが、今回、感じたことは、明るく開放的な方だったのではないかということです。京都の細かくうるさい気質や、江戸のがらっぱちな気風の人々にも愛されたのは、彼の大らかで、弧峰不白という名のとおり個性的な人となりではないでしょうか。また、感受性の豊かな方だったことは、『不白翁句集』の沢山な俳句からも知れます。
この熊野の人々の地域性のようなものは、そのあと、行き届いたお世話をして下さった新宮同好会の皆様の明るく優しい雰囲気とも共通するかと思います。
不白さんの生まれ故郷の新宮に、家元と、今回代表となられた瀬古伸廣さん光子さんご夫妻との友情がご縁で江戸千家同好会ができたことは真におめでたいことです。泉下の不白さんも心から喜んでおられます。
その同好会の活躍ぶりは素晴らしく、本廣寺での読経と、家元と博之さんによるお供茶のあとの呈茶席では、同好会メンバーによる初々しい所作が微笑ましかったです。その席では不白翁好みの「花心」という銘菓が供されました。このお寺の新宮市文化財にも指定されている書写妙法蓮華経印塔は、不白さんが七十九歳のとき、ご先祖の冥福を祈って江戸雑司が谷鬼子母神と郷里のここに祀ったもの。みんなで流祖のご遺徳を偲びました。
熊野三山のうち速玉大社は新宮の街中ですが、那智大社と本宮大社は、熊野の山の急峻な坂を登らなければならず、大型バスの入れない道をマイクロバス数台で送迎して下さった同好会のおかげで、老骨でもありがたく参拝ができたことを深く感謝しております。
二日目の朝、雲鶴先生と編集の平嶋さんが神倉神社にお参りされたことには驚きました。朝食前に五百何十段かの険しい階段を登って頂上の社に参られたのは、やはり、ご夫君とご愛息、ご上司が参加されたお燈祭りの現場を、確かめられたかったのでしょうか。
初日の懇親会の席に、会員が扮する二人の熊野比丘尼が現れ、観心十界図の絵解きをして悪人は怖ろしい地獄に堕ちることを教えてくれました。家元の篠笛は二日目の宴会に披露され、会場が和やかになりました。老生も一曲歌わせていただきましたが、それが第二の国歌ともいわれる高野辰之さん作詞の「ふるさと」です。皆さんもご唱和くださいましたが、三節目の歌詞の「山は青き故郷 水は清き故郷」とはここ熊野の地にぴったりではありませんか。
不白さんも、如心斎宗匠のお稽古が厳しい際や、慣れぬ江戸でのおりふしなどに、きっと故郷を懐かしく帰郷したいと思われたことでしょう。これからは流祖不白さんのふるさと熊野の新宮を、江戸千家みんなの故郷に推戴しませんか。
新宮に帰郷しての一句
古郷の春やむかしを夕櫻 不白