(東京不白会 平櫛京雪)
天海僧正は「黒衣の宰相」として、幕府の権力の中枢で暗躍した政治的な僧というイメージがあるが、、浦井先生によれば「天海は損ばかりしている」という。百八歳の長命で謎に包まれている天海像を多くのエピソードで解き明かしてくださった。
元和八年(一六二二)、徳川幕府二代将軍秀忠が、現在の上野公園はむろんのこと、上野広小路まで及ぶ広大な土地を、天台宗の僧天海に寄進したことから寛永寺は始まる。「東の比叡」として延暦寺のような天台宗の一大拠点を関東に作るためであった。天海は徳川幕府の官寺としての体裁を整えるため、延暦寺にならって本尊を薬師如来にした。その一方、観音堂、大仏、不忍池の弁天堂等、近江や山城の名所を写した堂を自力で建立していった。
それは、江戸庶民のための行楽の名所として、また庶民の素朴な信仰を受け入れる場にしたい考えたからである。奈良から桜の木を移し、不忍池の紅白の蓮などを整えたのも天海である。
天海には、権力に近い位置にありながら、幕府におもねらず意志を貫き通すエピソードが多い。徳川家康の神号事件、紫衣事件などである。
元和二年(一六一六)一月二十一日、駿府で発病した家康に対し、川越喜多院にいた天海はやっと三月になって見舞いに出向き、家康の機嫌を損ねている。四月十七日、家康が駿府城で亡くなった際、金地院崇伝により吉田神道による速やかな神格化がとりおこなわれた。これに対し、天海は、自分だけが家康から遺言を聞いていると主張し、山王一実神道という天台宗独自の神道で祭祀を執り行い、家康の亡骸は日光へ移されて東照大権現という神号が付けられた。
紫衣とは紫色の法衣や袈裟をいい、朝廷が高僧等に下すもので、朝廷にとっては収入源の一つであった。慶長十八年(一六一三)幕府は朝廷がみだりに紫衣を授ける事を禁じ、これに対し抗議した大徳寺沢庵、玉室宗珀等が流罪となった。これが紫衣事件で、天海は赦免に尽力し、処罰を下した当の家光と沢庵を面会させ、結果沢庵は品川東海寺の住職になった。
寛永寺は堂塔、伽藍が長期間にわたって建て続けられ、焼失や再建の例も多いので寺域、寺領についても説明しにくい寺である。
彰義隊や西郷が上野にかかわりをもった頃には、寺域三十万五千坪余、主要な堂塔伽藍三二〜三五、子院三六坊、寺領一万一七九〇石。この規模は五代将軍綱吉の死以降、あまり変化しなかった。江戸期の寛永寺ははじめの百年たらずの間に大きな変化をみせ、後の百五十年余りは比較的安定していた。綱吉の時代、寛永寺は名実ともに幕府の官寺となる。
これが一日の上野戦争で焼けてしまった。この彰義隊は幕府の意志のもとに結成された幕府軍であると考えるのは誤りである。もし幕臣を中心にしていて官軍に対する正式な交渉相手として対峙していたら、上野の山が灰燼に帰すような結果を招くことはなかっただろう。
流祖川上不白は紀伊藩の武家の出で江戸の水野家に仕官。そして京都の表千家で十五、六年にわたり修業の後、江戸に戻り、紀伊藩江戸詰家老水野家の茶頭として表千家流の茶を伝えていくことになった。さしずめ表千家東京出張所長ということであったが、長い間には江戸の表千家として独立していき、不白の茶は、町人にも浸透していった。これが江戸千家である。
京都に対しては江戸風、武家茶道に対しては庶民的というような特徴があると言われるが、不白は、まず武家社会の中で活動を始めた。江戸千家の中に武家の茶風があるということを考えていきたい。
〈スライドによる説明を一部紹介〉
百八歳の長命であった天海。家元が入手した天海の手紙が紹介された。元和八年六月二十九日、家康の七回忌に日光に秀忠が参内した時のことが書かれている、天海八十七歳。
流祖不白は品川の東海寺の大徳寺珠光院を江戸にうつした塔頭、聚光院に、利休像、利休堂、茶室を作り、復興していった。その開山が沢庵宗彭である。そして不白は、東海寺の琳光院を江戸における活動の舞台としていった。
今日のテーマの中心は八代将軍吉宗でもある。紀伊藩から八代将軍となり享保の改革など独自の政策を行い、在位期間も長い。不白は吉宗と直接のつながりはなかったと思われるが、紀伊藩の関係者が上層部にいる社会だからこそ活躍できた、吉宗が将軍にならなければ不白は茶人としての頭角を現すことができなかったと考えている。
家茂将軍の時代、老中として活躍、吉宗の倹約引き締めの政策に対して、解放政治を行った。
意次は不白の門人表に親子で名を連ねているが、それ以外に二人を繋ぐ資料は今のところない。出身も生まれた年も不白と同じである。水野家の茶頭としての不白の活躍にはこういう有力者の存在が関わっていると思われる。門人表には幕閣や様々な藩主も名を連ね、活躍の広さがうかがえる。
田沼失脚後、祖父吉宗を手本に寛政の改革で緊縮政策をとった。田沼時代に紀伊藩を背景に活躍していた不白は、この政変を受け、熱心な法華信者となる。定信失脚後には市井の茶人としてさらに大きく活動を続けていった。
松江の藩主、松江では名君と言われるが、江戸の文化が盛んなときに江戸にいる時期が長かった。文化教養、遊び、特に茶の湯に力を入れた趣味に生きた殿様。小堀遠州を真似て「雲州蔵帳」など編む。 家元所蔵の消息には、不白が東海寺で行った茶会に三、四十歳年下の松平不昧を招いている事が記されている。
消息は、手に取って実際に書いたその人がそこに表れる。こちらもよくよく読み込み内容を理解し、書風も味わう。そうしているうちに、だんだん、その人物が表れて、行間から立ち上がってくる。茶室に掲げると、その人を茶室に招き、会話をしているような気持ちになる。