如心斎一行と茶杓飾りの本席の床
如心斎への供茶 正客は玉林院森幹盛住職
武者小路千家家元を正客に迎えて
方丈の間 寄付の説明は博之さんが担当
【会 記】 寄付 啐啄󠄁斎 飛石画賛 自得斎箱書 (荒) (角) (座敷) 茶はあらく かくの数とるさしき哉 八寸と一献 洞雲庵 床 如心斎一行 啐啄󠄁斎箱書 渾崙二呑厶二個ノ棗ヲ一 花 玉の浦 椿 木五倍子 花入 其白斎楊甫作 尺八 銘 雲帯 香合 長沙窯 唐代 茶杓飾り 如心斎作共筒 不白箱書 家元随身ノ印ニ 給レ之ヲ 銘 客僧 釜 玉林院 什器 旅箪笥 〃 水指 高取 鮟鱇形 棗 忍草蒔絵 赤地友哉造 茶碗 宗入作 大黒写 不白箱書 替 玉水焼 赤 茶杓 名心庵 自作 建水 曲 蓋置 黄瀬戸 竹節 御茶 池の白 八女星野園 御菓子 上りようかん 半田松華堂 器 九谷 椿絵 干菓子 御池煎餅 亀屋良永 器 梅盆
寄付で一献
明石蛸と菜の花の串刺、
山芋(蝶々)の甘酢漬、
豆腐の味噌漬にウニ豆腐を乗せて
大徳寺玉林院ではその中興の祖といわれる大龍宗丈のご命日にちなみ、毎月十六日に釜が掛けられお茶会が開かれている。
家元は一昨年の祥月命日三月十六日にはじめて釜を掛けられ、今年は二回目ということでお心持ちがさらに深く感じられるものであった。
茶会は如心斎が中心のテーマであった。本席床には、如心斎の一行と如心斎の茶杓「客僧」が春日卓に飾られた。不白を通して如心斎さらに表千家にも思いが及ぶしつらえであった。
この機に家元の著書『茶人 川上不白』を改めて読ませていただいた。
川上不白は十五歳で仕官して江戸に在り、十六歳で京都表千家に入門し修業を積む。如心斎宗匠の時代であった。理想家肌の如心斎は茶の湯の大衆化等改革の中で悩みも多く、そのような師を不白は理解し支えていく。如心斎に従い、この玉林院で三、四年参禅し、大龍和尚より、それぞれ「天然」「孤峰」の道号を授かった。
如心斎が四十六歳で亡くなると、江戸に在った不白は早速京に上り嗣子啐啄󠄁斎を見守り続けた。
如心斎七回忌を済ませ「啐啄󠄁斎に与うる書」(「不白筆記」)を贈り、いよいよ江戸での活躍が始まった。紀伊藩江戸詰の茶頭として武家と商家を結び、また千家流を江戸に伝えた。さらに晩年には町人庶民にも不白の茶は拡がっていった。
今回の会記には如心斎、不白、啐啄󠄁斎の師弟の強いつながりが伺えるお道具がある。
寄付の啐啄󠄁斎筆の飛石画賛は江戸川上家をおとずれた啐啄󠄁斎から自得斎が賜ったものである。
本席の如心斎の一行は、如心斎と共に玉林院に参禅し修業し、大龍宗丈のもと交わされた禅の公案を思わせるような激しい文言である。
茶杓は有名な「客僧」。一七五〇年皆伝を受け、八月に江戸に赴く時、はなむけに如心斎より賜ったものである。
さらに千家流とのつながりを宗入作の大黒写しや玉水焼の茶碗に込められた。
一昨年と同様に一席目は正客に玉林院森幹盛ご住職が見守られる中、如心斎に茶が供えられた。その後、上りようかん、八女星野園の御茶でお客様にも二服ずつ点てられた。家元も自服で召し上がり、京都のお客人となごやかに交流された。
寄付では博之様が挨拶、説明をなさり、八寸と一献が勧められた。春らしい明石の蛸等三種が彩りよく根来塗の盆にもられ温酒が出された。
早朝表門をくぐった時には鴬のお迎え付けがあり、のどかな陽射しにあふれた一日であった。
私たちは普段から流祖不白を、その書や手作りのお作を通して身近に想像し、お偲びすることができますが、今回は玉林院の南明庵、蓑庵という不白が実際に修業されたその場に私たちも在ることで、その気配を強く感じる貴重な体験でございました。
(小平市平櫛田中彫刻美術館館長)
茶道資料館の展覧会に来られた宗雪宗匠にお誘いいただき、玉林院の月釜に伺いました。待合では黄色い蝶が舞う素敵な八寸でまず一献。博之様や神戸のお社中の方々のおもてなしで、ほっこりと和んだ雰囲気になりました。
本席の洞雲庵は、大龍和尚を偲び、玉林院で修業に励んだ如心斎と不白に思いを馳せる取り合わせでした。そこで、ふと目に止まったのは趣のある旅箪笥。玉林院の什物で、昔、宗雪宗匠が修業をされた折に先代のご住職が使われていた思い出のものとの事で、不白と宗雪宗匠の姿が思わず重なりました。他流儀のお席はどうしても緊張しますが、楽しいひとときを過ごさせていただきました。
(今日庵茶道資料館 学芸主任)
洞雲庵