去る三月十六日、京都本法寺に於いて、家元主催による茶会が開催された。本法寺は川上不白の菩提寺谷中安立寺の本山である。室町時代に活躍した日蓮宗の僧侶日親上人により創建された。本法寺はその後移転、再興を余儀なくされたが、天正十五(一五八七)年現在地に再建された。
不白が約十五、十六年間にわたり修業した表千家の隣接地にあり、不白は本法寺中興の祖ともいわれる日詮上人と親交があった。このたび、不白と縁の深い日蓮宗本法寺に於いての茶会は初の催しであり、誠に意義深いものとなった。
本法寺仁王門
本法寺本堂
本堂 日親上人曼荼羅図を掛け御祈祷
本法寺 貫首 瀬川日照上人
茶会前日に、本堂にて本法寺貫首瀬川日照上人により御祈祷が行われた。
茶会は、書院の間にて午前十時と午後二時との二回行われた。先ず初めに、日照上人をお招きして家元による供茶から始められた。床の間には、日親上人筆の曼荼羅本尊が掛けられ、三つ具足が配された。及台子飾りにて、供茶用の茶碗は宋代柿天目が用いられた。
本法寺での家元による日親上人への供茶は、参列した社中一人ひとりの心に伝わるものがあったに違いない。
供茶終了後、一献が出された。緊張感が解きほぐれる。一献後、家元のお点前により、ゆっくりと寛ぎながらの一服を拝服することができた。この日の参会者は、東京を中心に、近県の支部の方々が参列された。また、亭主側の水屋、運びなど陰のお手伝いは、神戸不白会の方々が担当され、配慮の行き届いた接待をされていた。
この日が来るまでの家元の強い意志と周到な準備の積み重ねにより、茶会は無事に終了することができた。
またこの記念すべき茶会を第一歩として、本法寺とのご縁が深まり、江戸千家として、その出発点となっている京都とのつながりも、より一層深まることになるであろう。歴史的に意義深い茶会となった。
茶会終了後、貫首様の本法寺についての講話があり、引き続いて裏千家茶道資料館副館長・筒井紘一様による茶の湯三昧のお話があった。
また、献茶式には、書跡研究家の増田孝様もかけつけられ、拝服席の時に、本法寺と縁が深い本阿弥光悦のお話も伺うことができた。
本法寺書院 床
家元供茶式
日照上人をお迎えして
供茶式終了後の一献
京都本法寺書院 主 川上宗雪
床 日親上人曼荼羅本尊 江戸千家蔵
嘉吉元年十月四日
(1441)
三ツ具足 不白好 竹
花 本法寺紅椿 山内芽吹き
供茶用柿天目 宋代
供茶 一献の後
及台子飾り
時代風炉釜 松竹梅地紋 大西定林造
皆具 梅翁好 瑠璃釉亀図
棗 紅白梅 平 守屋松亭作
茶碗 不白手造 共箱
赤黒一双 鶴亀絵
茶杓 自作 白虎
御茶 雲鶴 丸久 小山園詰
御菓子 柳緑花紅 亀屋良永製
器 九谷
柿右ヱ門
以上
貫首様からご講話をいただく
裏千家茶道資料館副館長・筒井紘一様
茶会を支えた神戸、東京の皆さん
貫首様の奥様を囲んで
応永十四(1407)年に上総国埴谷(千葉県山武市)の埴谷氏一族に生まれる。幼い頃に中山門流(法華経寺)の日英上人のもとで出家を果たす。
京都にて、日蓮聖人の継承者として活動するが、足利幕府に対する諫暁《かんぎょう》は、治世の秩序を乱すとされて投獄の身となる。そこで受けた拷問は、灼熱の鍋を被せられたりするものだったが屈することなく信念を貫き通し、その拷問から「鍋かむり日親」と呼ばれるようになった。
本阿弥光悦筆の扁額
嘉吉元年(1441)の乱によって恩赦されたが、寛正元年に肥前での布教が原因で本法寺は破却に遭い、再び捕らわれる。日親上人によって築かれた本法寺開創の時期や場所は明らかではなく、永享八(1436)年に東洞院綾小路で造られた「弘通所」が始まりとされている。
寛正四年(1463)に赦されてからは寺門興隆に心血を注ぎ、有力な信徒たちから支援を受けて本法寺の再興を果たす。長享元年(1487)に本法寺の拡充を発願し、『本法寺縁起』を著して勧進を始めたが、志半ばで病に倒れ、翌年に八十二歳にして波乱に満ちた生涯を閉じる。(本法寺パンフレットより抜粋、省略)
巴の庭(本阿弥光悦作庭)
このたびの本法寺茶会の日は、丁度、日蓮宗歴代上人並びに本法寺と縁深き美術作品が公開される特別展が開催される期間中にあった。
なかでも、日蓮上人真跡断簡、伝銭舜挙筆鶏頭花図(重文)をはじめ多くの寺宝が展示された。
有名な長谷川等伯筆巨幅「佛涅槃図」のご開帳に併せた特別展で茶会参会者も本法寺の歴史と文化の一端を拝観することができた。
本法寺多宝塔
桃山時代を代表する画家の一人、長谷川等伯と本法寺とのつながりは極めて密なるものであった。能登国七尾出身の等伯は上洛後画人として次第に名を成すが狩野派との対立など、幾多の困難を乗り切る上で、本法寺は等伯にとって救世の寺であったといっても過言ではないだろうか。等伯は、天正十七年(1589)に利休寄進の大徳寺山門の天井画を描き、臨済宗大徳寺派の春屋宗園とも親密な関係にあったが、とりわけ等伯の菩提所本法寺十世の日通上人との間柄は深い。
慶長四年(1599)に描いた大涅槃図(縦十メートル、横六メートル)は、裏に日通上人により、日蓮聖人をはじめ、近親者の名前が書き記されていることから、ここに書かれた人達の供養を目的として描かれ、本法寺に奉納されたことがわかる。
本阿弥家は、刀剣の磨礪、浄拭、鑑定を家職とするが、光悦の曽祖父、本阿弥清信が日親上人と出合い、熱心な法華信者となる。以来、本阿弥家は本法寺を菩提寺とし、本法寺が現在地に移転された時も、光悦は父光二と共に尽力する。
光悦の法華信仰は生涯一貫し、晩年期、家康より鷹ヶ峰の地を拝領した時も、本阿弥家一族を中心に集落を形成し、法華宗を精神的支柱とした。