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第32回東京不白会夏期講演会

平成24年6月30日 (土)
於 江戸東京博物館大ホール

講演

「武家の茶の湯と不白の時代」

講師 谷村玲子先生
(国際基督教大学アジア文化研究所研究員)
会場風景
 第三十二回の東京不白会講習会は、講師として谷村玲子先生をお迎えし、「武家の茶の湯と不白の時代」をテーマとしての講演があった。
 現在、千家茶、そして武家茶が各流儀として存続し、流派別に活動が続けられている。各流に特色があり、また流派同士の交流も行われているが、武家茶と千家茶とは歴史的にみてその成り立ちが異なり、独自の茶風を作り上げてきている。
 江戸千家の流祖川上不白は、京都にて千家茶を修業した千家の茶人であるが、江戸に出てからの活動の場は武家社会であった。
 千家茶人川上不白の茶を理解する上で、必要なことは、武家の茶の湯とはどのような茶の湯であったのかということにある。本講演では、武家の茶を軸として、江戸時代初期からの武家茶の歴史的展開が説かれ、そして、十八世紀後半の江戸における不白の茶の湯と武家の茶の湯の邂逅を考察することが提示された。
谷村玲子先生
谷村玲子先生

江戸時代の武家茶

 桃山時代の豪商達が茶頭として活躍した政治と茶の湯は、徳川時代到来で終わる。家康は天下泰平をめざし、身分制の秩序を強調する儒学思想を採用し、幕藩体制の確立の基礎理念とした。
 徳川時代の茶の湯は、その初期においては、織田有楽、細川三斎、古田織部、小堀遠州等の大名茶人が活躍し、利休のわび茶を継承しつつ武家の身分秩序を重んじた茶の湯を模索していった。茶の湯の世界にも、五常五倫の思想が取り入れられた。

石州流の茶の湯

講演

 徳川幕府の安定が続くにつれ、幕府の秩序をさらに明白にしその社会を維持するための茶の湯が必要とされた。織部、遠州時代以降に武家茶を推し進めたのが片桐石州である。石州流の茶の湯は、武家にふさわしい茶の湯を確立した。石州流は将軍家茶の湯師範として、柳営(徳川幕府)の茶の地位を築いた。柳営の茶とは、徳川幕府の秩序内の茶の湯である。武家社会の慣習に照らし、秩序維持を目的とした武家の精神的理念を基盤とし、武家にふさわしい茶の湯を規定化するものとなった。また、武家の自覚としての身分の茶の湯と共に禅による内省的な理念としてのわび茶をも兼ね備えていた。更に石州流は完全相伝によって石州流各流が輩出すると共に、幕府数寄屋頭(坊主)が、各藩の藩主または茶頭職に茶を指南した。

十八世紀半ば武家の茶の湯

 十八世紀半ばには、茶の湯は多彩な大名茶人を輩出した。出雲松江藩主松平不昧、郡山藩主柳沢尭山、姫路藩主酒井宗雅、白河藩主で後に寛政改革を進めた松平定信等の大名茶人である。
 中でも、講演では、松平定信に焦点が挙げられ、定信の著書『花月草紙』『茶道訓』『茶事掟』などが詳解された

パネルトーク

パネルトーク

パネリスト  谷村玲子先生
川上宗雪宗匠
進行  川上宗康先生
 このたびの講演の始めに、谷村氏より、川上不白が京都での修業を終え、江戸で活動することにより、江戸における千家流の茶の湯の歴史が始まったという指摘があった。続いて参勤交代制によって、その頃の江戸は約二百六十家の大名家が入れ替わり隔年ごとに居住する武家の町であったことがスライドを用いてより分かりやすく解説された。すなわち不白が江戸で活動し始めた頃、江戸の茶の湯とは千家流の茶の湯ではなく、武家の茶の湯であった。
谷村玲子先生
 その中で、不白の茶の湯が人気を博したのは何故か、不白の茶と武家社会とのつながりについて焦点をあてて、パネルトークが行われた。
 不白が元々、新宮における紀伊藩の水野家の家臣であり、武家出身として武家の茶の湯がそのスタートにあることが再確認される。
川上宗康先生
川上宗雪宗匠
 武家茶道を江戸にて確立したのは石州であった。さらに石州の茶頭が石州流を広める役割を果たしていた。そして柳営の茶の数寄屋頭と水野家の茶道職の立場にあった川上不白との相違について討論された。
 政治経済の中心が京都から江戸に移行されたことに続き、京都の文化が江戸に入り、さらに京都とは異なる江戸の気風に合った文化が江戸の武家社会で流行する。そうした中に不白は、活動の場を見出すことができるようになる。また、身分制度が定められていた時代、大名とは同格ではない不白の立場が改めて確認され、だからこそ、当時の豪商(財界人)と武家社会をつなげる役割を果たせたこと、そして不白の資質などについても話し合われた。

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