桃山時代の豪商達が茶頭として活躍した政治と茶の湯は、徳川時代到来で終わる。家康は天下泰平をめざし、身分制の秩序を強調する儒学思想を採用し、幕藩体制の確立の基礎理念とした。
徳川時代の茶の湯は、その初期においては、織田有楽、細川三斎、古田織部、小堀遠州等の大名茶人が活躍し、利休のわび茶を継承しつつ武家の身分秩序を重んじた茶の湯を模索していった。茶の湯の世界にも、五常五倫の思想が取り入れられた。
徳川幕府の安定が続くにつれ、幕府の秩序をさらに明白にしその社会を維持するための茶の湯が必要とされた。織部、遠州時代以降に武家茶を推し進めたのが片桐石州である。石州流の茶の湯は、武家にふさわしい茶の湯を確立した。石州流は将軍家茶の湯師範として、柳営(徳川幕府)の茶の地位を築いた。柳営の茶とは、徳川幕府の秩序内の茶の湯である。武家社会の慣習に照らし、秩序維持を目的とした武家の精神的理念を基盤とし、武家にふさわしい茶の湯を規定化するものとなった。また、武家の自覚としての身分の茶の湯と共に禅による内省的な理念としてのわび茶をも兼ね備えていた。更に石州流は完全相伝によって石州流各流が輩出すると共に、幕府数寄屋頭(坊主)が、各藩の藩主または茶頭職に茶を指南した。
十八世紀半ばには、茶の湯は多彩な大名茶人を輩出した。出雲松江藩主松平不昧、郡山藩主柳沢尭山、姫路藩主酒井宗雅、白河藩主で後に寛政改革を進めた松平定信等の大名茶人である。
中でも、講演では、松平定信に焦点が挙げられ、定信の著書『花月草紙』『茶道訓』『茶事掟』などが詳解された