積翠庵
表千家「不審庵」を模したと伝えられる茅葺きの茶室。天保の初めに造られ、田中泰阿弥によって移築された。是空軒付設。
待合 是空軒床
南北朝時代、寄堂筆の蘭竹図により、深みのある世界に
本席 積翠庵
澤庵宗彭の墨跡「秀嶽」が、茶席全体を厳かに落ち着かせていた
家元自らの濃茶点前、粉引「浦島」の味わいは格別なものであった
待合 是空軒 床 寄堂 蘭竹図 香合 堆朱 樹下人物図 炭斗 唐物 底四方 前田家伝来 羽帚 白鳥 錦鶏鳥添 火箸 毛織 竜彫 釻 四君子文金銀象嵌 釜敷 時代藤組 灰器 辻井播磨作 雲華 灰匙 砂張竹節 莨盆 紫檀手付 火入 織部四方 本席 積翠庵 床 澤庵宗彭 秀嶽 花入 古銅 四方竜耳 花 大山蓮華 壺珊瑚
風炉 唐銅 釜 芦屋 住吉地紋 水指 南蛮芋頭 茶入 不白所持 唐物 写 瀬戸肩衝 銘 寿星 袋 梅地紋金襴 牡丹紋風通 弥三右衛門間道 茶碗 粉引 銘 浦島 帛紗 双竜草花文錦 茶杓 不白作 共筒 銘 鳳凰 建水 曲 蓋置 青竹 御茶 星の奥 八女星野園詰 菓子 胡麻求肥 銀座空也製 器 縁高
戦後の復興が見え始めた昭和二十三年、北方文化博物館は、東京国立博物館の後援により、美術展などの特別展示を始め、それと並行して茶会が開催されるようになりました。江戸中期、一農民から身を起こし代を重ねるごとに富を築いて、越後随一の大地主と呼ばれた豪農伊藤家が自邸を博物館として整備し公開しているのが北方文化博物館です(現在館長は八代当主伊藤文吉氏)。
昭和二十五年に「翠濤茶会」発足。この会は、翠濤庵溝口景山候(越後新発田藩溝口家十代当主、石州流怡渓会の祖)を敬仰し、その遺徳を追慕し、地方文化と茶道発展向上に資すことを目的としたものでした。当初の役員の中心は先代館長伊藤文吉(七代当主)、田村文之助(北越製紙社長)、斎藤利助(鎌倉美術商)の三名でした。
発足以来極めて盛大裡に、時には茶席十六、来会者千七百名に及び、茶会には、各流の家元が献茶をすることがならいとなります。この茶会は昭和五十二年三十回を数えたのを契機に終了。
昭和五十三年五月には、先の三氏の追善茶会が催され、昭和五十四年より「静松軒茶会」として六十三年まで続きます(開催十回)。さらに、平成二年より「越後三楽山茶会」と命名されて再出発、今年は二十回目を迎えます。
北方文化博物館の茶室は、積翠庵(是空軒附設)、時庵、佐度看亭、いわのやと、すべて作庭師田中泰阿弥の作であり、博物館の山の材と昭和十年代の台風で倒れた金閣、銀閣寺内の檜と杉の用材が使用されているとのことです。
今年は、私共江戸千家家元に濃茶席をお願いし積翠庵に釜を掛けていただきました。当日は小雨となりましたが、全国からお数寄者が集い、道具組と、家元自らが点ててくださる濃茶の一服に、皆様大変な満足をなされたご様子でした。
薄茶席は、常に地元が担当ということで、中野宗順が担当させていただきました。家元の幹部の先生方も東京から多数お越しいただき、感激いたしました。嫁の里雪が点前、小学五年の孫娘が半東の真似事をして華を添えてくれました。
田中泰阿弥作の庭の「いわのや」では、手作りの葛切りが振る舞われ、いつもながらに皆様から喜んでいただきました。
この三楽山茶会は、いわゆる大寄せではなく、約百五十人の全国の数寄者の交流と親睦を主とし、ゆったりとお茶を愉しんでいただくことを目標としております。昼膳も地元の食材で新潟らしい料理を伊藤家の客膳で供しております。
来年は遠州流宗実家元が濃茶席をお持ちいただくことになっております。
同門の皆様も機会がございましたら、是非おいでいただきたくお待ち申し上げます。
忘己庵 中野宗順
薄茶席 佐度看亭 床
佐度看亭
九畳半の広間を中心に、二畳中板の佐度看の間と三畳半の席が併設。田中泰阿弥の作。
三代揃ってお客様をおもてなし
床 良寛詩 旡近芒種節云々…… 花入 宗全篭 花 日本苧環 草橘 姫早百合 唐松草 河原撫子 香合 屈輪 風炉 筑前芦屋 釜 越前芦屋 小及台子に 水指 紅毛色絵 薄器 唐物 朱中次 普斎箱 茶碗 不白作 赤 銘 末社神 替 高麗三島 替 朝日 銘 宇治川
茶杓 名心庵宗雪家元作 銘 合歓 建水 砂張 蓋置 黄瀬戸竹節 御茶 星峰 八女星野園詰 菓子 洋梨羹 丸屋本店製 器 高坏盆 煙草盆 桑手付 火入 古染付仙人図 莨壺 独楽 煙管