第16回江戸千家連合不白会全国大会
シンポジウム「不白の生きた時代」
2007年年11月5日(月)
於 新宿京王プラザホテル
大会三日目は、会場を西新宿の京王プラザホテルに移し、「不白の生きた時代」というテーマでシンポジウムが行われた。
まず、司会者川上宗康氏より主旨説明がなされたあと、川上宗雪宗匠と、堀内宗完宗匠、河合正朝先生、佐藤悟先生の三名の講師により各々の分野からご講演をいただいた。その後の意見交換の場では、茶の湯、絵画、俳諧の接点や共通性が探られ、中でも各分野の需要層の拡大に焦点が当てられていた。
講演の一部要旨とディスカッションのまとめを掲載します。
司会 川上宗康氏
■シンポジウムの主旨
本年(平成十九年)、不白没後二百周年を迎えます。川上不白自身については、さまざまな研究がなされておりますが、いまだ調査研究を必要とする課題も残されています。一方、そうした基本的な研究の他に、どのような時代に不白は生きていたのだろうか、ということに視点を移してみるというのも必要なことと思われます。
不白を外側から見る、不白の生きた十八世紀という時代はどんな時代だったのか、そういうテーマを考える手がかりを求めて「不白の生きた時代」というシンポジウムを企画しました。
際限のない課題ですが、この度は、とりわけ不白と密接に関わりのある、茶の湯、絵画、俳諧の世界に目をむけ、不白とのつながりの有無にこだわらず、この時代に通有する特色を見出してゆければと思います。
江戸千家川上宗雪宗匠
はじめに、川上宗雪氏より、江戸千家流祖となった十八世紀の茶人川上不白の生涯についてのお話があった。
如心斎との師弟関係について具体的な逸話、さらに、京都修行時代の茶会記をいくつか取り上げ、中でも堀内家(宗心)に招かれた茶事の紹介もあり、当時の千家茶の茶風をわかりやすく説かれた。前日の記念茶会の堀内宗匠の淡々としたお席の取合せに思いを馳せられていた。
また、後半生の茶会記からは、松平不昧を招いたときに使用した長次郎「紙屋黒」の話、茶会で用いた不昧所持の志野茶碗「朝萩」にも触れられ、不白の生きていた時代と現代とが結びつく興味深いお話があった。
堀内宗完宗匠
堀内氏は、千家の茶の湯の歴史、展開について解説された。
まず、利休行以降の千家流の茶の湯の原点は、利休の公的な面を排除した玄伯宗旦のわび茶にあるという。それに対し、市民層が力を持ち始めた時代背景の中で、たとえ大名系の茶道からでも、よいものはためらわずに取り入れ、大胆な発想をもって大きな変革をなしていったのは六代覚々斎であった。
さらに七代如心斎の功績は、利休系茶道を完成させたことにあり、表千家では中興の祖とあがめられるようになった、と説明された。
利休、宗旦、そして覚々斎、如心斎から八代啐啄斎へ継承されていく茶の湯の変遷を、茶室や茶道具等をスライドで示しながら視覚的にも理解できる解説をいただいた。
不白を中心に千家茶を考える立場にあるものにとって、京都千家茶の解説は、不白の存在を外側から見直す好機と思われた。
河合正朝氏
河合氏は不白と同時代、十八世紀を中心に活躍した画家達について解説された。
十八世紀の絵画史の特徴は画風が多様化し、他の文化と同様に絵画を享受する階層の幅が拡がったことだという。伝統的な狩野派を学ぶことから出発しながらも弟子達に自由な気風が生じ、あらたな画風が成立していった。狩野派の中にも個性派が排出。また、文人画、浮世絵、江戸琳派等、それぞれに幅広い豊かな世界が展開した。
京都画壇と江戸画壇の画家達の違い、京都と江戸との交流により情報交換が盛んに行われ、江戸にも独自の絵画世界が確立してゆく。その過程を、膨大な画像を映写しながら分かりやすく説かれた。
不白と絵画とのつながりについても触れられ、こだわりをもたない不白の一面が浮かび上がった。
佐藤 悟氏
佐藤氏は俳諧の歴史について、江戸時代初期の俳諧の祖ともいうべき松永貞徳の時代から話を起こされた。また俳諧と茶の湯のつながりについても主要なテーマとされた。
各時代の代表的な俳人の作品集を紹介しながらその特質、系統などを解説し、この世界のバラエティーに富んだ展開の歴史を示された。西山宗因、北村季吟、井原西鶴、松尾芭蕉等は、不白の時代以前の俳人であるが、それを知ることが不白の俳諧をより一層理解するよすがとなる。
本来古典の教養を必要とする俳諧の世界においても、時代が下がるにつれて享受者の階層が拡がり、川柳が生まれるなど、大衆化されていった。江戸においては洒脱風な俳諧も生まれてくる。
不白も、京都で堀内仙鶴に俳諧を学び、後半生では江戸風の俳諧の世界の中に入り込み、独自の、後にいう俳句を数多く残すことになる。同時代の与謝蕪村、小林一茶等の俳諧陣とのつながりは見出せないが、佐藤氏は「不白翁句集」を取り上げて、不白にとって俳諧というのは茶事と密接なつながりをもつものだったと指摘された。
■パネルディスカッションを終えて 川上宗康
十八世紀は庶民層の台頭の時代であり、それにともない文化の享受層が拡がりを見せ、茶の湯、絵画、俳諧各々の分野でも変容が見られる。公家、武家社会にも影響が見られ、多様化ということが十八世紀の特徴といえる。
また、江戸と京都との気風の違い、交流関係についても討論があり、江戸の文化は、急激に展開したものではなく、上方から江戸へと政治文化が東漸するなか、次第に江戸風の文化が形作られていったということにおいて、茶の湯、絵画、俳諧の世界で共通するともいえる。さらに、茶人、画家、俳諧人他の交流が盛んになったことも注目すべきことであるという指摘もあった。
十八世紀に見られる茶の湯の大衆化は、型の修練を目的とした茶道を一般化させ、形式化を促すことにもなるが、一方、底辺の拡がりによる多様化の可能性を生み出した。
川上不白は、江戸において自ら江戸の茶の湯を作り上げたというよりも、時代に逆らわずに行動し、結果的に自ずと江戸の気風になじんだ茶の湯を形作ったといえるだろう。
今回のシンポジウムは結論的なものが求められるものではない。川上不白が、どのような時代に生きていたのか、ということが課題であり、各々の講師のお話により聴講者の視野が拡がったことを期待するものである。
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