私は、まだ学生だった1983年から11年間、東京・目白の荻野先生のもとで楽しく江戸千家のお茶を学ばせて頂きました(私達の土曜日のお稽古は、奥様の担当でした。)。
1994年に渡独、その後、二人の子ども達の出産・育児、慢性関節リウマチの発病で8年の空白ができましたが、家元のご厚意により、数年前からまた日本でのお稽古の機会に恵まれ、とても嬉しく思っております。
私は2002年から、13の公共の市民大学、教会、合気道道場、民間の禅の文化センターや様々な催し等で茶の湯を紹介して参りましたが、未だに、江戸千家のお茶を学んだ方に出会ったことがありません。試行錯誤を繰り返しながら、ひとりで企画・交渉・実行の方法を模索してきました。
茶の湯は、ドイツでは、” Teezeremonie “ (英語“ Tea ceremony “の訳)と呼ばれていますが、私はこの訳語があまり好きでなく、茶の湯が、非個人的で繰り返し可能な「儀式」では味わえない、深い喜びと安らぎを齎すものであることを伝えられるよう、努めております。(ちなみに、日本人の「儀式好き」は、欧米でよく知られています。)
場所がどこであれ、お茶の紹介に必要な道具はすべて(畳の上敷まで)持参しなければなりませんので、私の小さな車のトランクと後部座席は一杯になります。時には130kmも走って、やっと目的地に辿り着いても、2階・3階の教室へのエレベーターがかなり遠かったり(エレベーターがない建物もあります)、用意された教室の床に泥が落ちていたり、リウマチを持つ私は、準備に相当な体力と神経を消耗します。
参加者の質は様々で、極端にマナーの悪い人、「まずい」抹茶に不満を言う人等が大抵何人かいますが、禅や武道を長く学んでいる人や敬虔なクリスチャンは、茶の湯の平和で温かい交わりに深く共感してくれます。いつまでも席を立たずに余韻を味わう人、私の手を握って「教会でも味わえない平和と温かさを経験しました。」と言って下さる人、一緒に残って片付けを手伝って下さる人、「自服」の習慣を知らぬまま、「どうぞ、あなたも一緒にお茶を飲んで下さい。」と最後に私に言って下さる人達との心の通い合いで、私は準備の大変さも忘れて、喜びと感謝で満たされます。
とは申せ、茶の湯に感動したドイツ人が稽古に興味を持つことは、ほとんどありません。コンサートで感動した人が、必ずしも自分で楽器演奏を習おうと思わないように。茶の湯は、本来コンサートではなく、合奏であるべきだと思うのですが、この間の距離を克服するには、工夫と時間が必要です。正座や指先を使う点前の動作は、ドイツ人の日常とあまりにもかけ離れていて、若い人でないとほとんど習得不可能な反面、茶の湯のよさを本当に理解し味わえる人は、多忙で精神的に成熟した大人に多いからです。
家元の「茶の湯は、稽古の繰り返しに終わるべきでなく、自分で能動的かつ自由に工夫してゆくべきもの」というお考えは、「稽古と作意」の両面を尊ぶ原点に帰るだけでなく、民主的な人間関係と個人の自立を重んじる現代のドイツ人にも歓迎されるに違いなく、とても励まされます。