■水屋日記 第7回
長板・中置きの例
先日、京都の稽古に行ったときの事です。以前こちらでも触れましたが私の稽古場は大徳寺前の茶屋にあります。稽古場に到着すると、そこの主人から言われました。「一昨日、家元が来られまして、他流派の稽古で使った点前座のしつらえを見て、『是非、道具はこのままで稽古をさせて下さい』と伝言を残して行かれました」との事。
点前座を見てみると、竹台子に風炉を中置きというしつらえでした。江戸千家の点前をよく御存知の方はわかると思いますが、あまり長板や台子に中置きをしての点前はしません。如心斎好みのしつらえだそうで、秋に如心忌のあたりでする流儀もあるようです。
伝言がある以上そのしつらえでやる事にしたのですが、例えば蓋置きと柄杓の位置が普段通りだと問題を生じるなど、細かな点をその場で決めなくてはいけませんでした。自分で一度点前をしてみながら委細を考えました。
実は普段の直門稽古でも、家元は時たま点前を自身の考えでアレンジしたり、状況に合わせて新たに考案したりします。先日の家元稽古では、点前の向きを九十度横にして点前した事もありました。横に向けたのには理由があるわけですが、稽古前日に突然思いついて新たな点前を考案して、翌日には稽古してしまう速度には直門も驚かされます。
氷点て
これに関してはよく「家元だからできるのですよ。家元でなければ勝手に変えられません」と言われてしまう事もあるようですが、もっと誰でも(特に状況が特殊ならば)自分なりにアレンジして点前する訓練を、普段の稽古の中でしていて良いのではないかと思う事があります。
もちろん一定の形を身につけているから崩す事ができるというのはあると思います。ですから、形を身につける稽古を否定するつもりはありません。
しかし、普段は正式な形の点前をするだけで時間いっぱいで、崩す事まで踏み込んで各自考える余裕はなかなかない……という稽古場も多いのではないかと思います。
工夫する力や発想の幅は、いつもと違う事を考え出す行為の繰り返しで磨かれるのではないでしょうか。それは、何度も稽古する事で形が身につくのと同じではないかと思います。
我々の世界は、よく伝統という言葉の元に先人たちの積重ねを受け継ぐ事を大切にしようと言われます。ですが伝統を守り伝える際には形だけを写すのではなく、彼らが行ってきた「考える、生み出すという行為」も受け継いでいきたいものです。