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■ドイツからの便り No.8■

●稽古への入口をドイツ人に作るには(1)●

野尻 明子 (ドイツ在住)
シュレーダーさん筆の「一期一会」
好きな言葉「一期一会」を、シュレーダーさん自身が墨書。
 ドイツ人は、大変よく考え、学び、常に目的と責任の所在を自覚して行動する民族で、ドイツ語も、感情表現よりも思考に適した言語だと言えます。国家や地方自治体による成人教育のシステムや様々なスポーツクラブの活動は、日本では想像できないほど充実している上、「教育の機会が貧富の差に左右されてはならない」という理念に基づき、数年前まで、大学の授業料も外国人を含めて無料でした。
 ドイツはまた音楽の国でもあり、大小のホールや多数の教会で絶えず様々なコンサートが開かれ、音楽を楽しむ機会には事欠きませんが、美術や飲食の文化は非常に素朴で、色や形の美しさ、味に対する感覚が単純です。
 このような国で茶の湯を紹介するのですから、私は事前に、お茶を紹介する講座の受講料が高くなり過ぎないよう、それぞれの文化センターの責任者と相談しながら、時間や場所の使い方を工夫して計画を立てます。更に、本番の紹介の講座では、時間をかけて野原で見つけてきた花やお気に入りの茶碗の美しさへの反応を、受講者から期待してはならないばかりか、沢山の率直な質問に答えなければなりません。
 「茶の湯は何を原型として成り立ったのか。」「茶の湯は、今の日本では、どのような機会に、誰によって誰の為に催されるのか。」「茶の湯における道具への愛着は、禅の執着を否定する教えと矛盾するのではないか。」「お茶を点てる際に、柄杓でお湯をなぜ必要な分だけ初めから汲まないのか。」「左利きの人も右利きの人と同じ点前を学ばねばならないのか。」「亭主が客と共にお茶を飲まない場合もあるということだが、日本人はそれに何の疑問も持たないのか。私達ドイツ人にとっては、とても異様だが。」「亭主だけでなく、半東も客とお茶を味わえば、もっと雰囲気が親密になるのではないか。」等々。
 このような質問に対して、私が自分の考えをはっきり示せないと、受講者の真剣な興味が途端に半減してしまい、稽古への道も閉ざされてしまうことになるのですが、いずれも安易に答えることが許されない、本質的な部分に関わる質問です。
シュレーダーさんの茶室でのお稽古
シュレーダーさんの茶室でのお稽古。(4月30日)
 さて、私の講座で茶の湯に感激し、私の説明にひとまず納得し、ぜひまた茶の湯を経験したい、というドイツ人に稽古を勧めると、次のようなことをよく言われます。「私は自分でお茶を点てられなくてもいいんです。この和やかで落ち着いた雰囲気の中で時々お茶が飲めさえすれば。」(日本にも、このような希望を持つ人は多いのではないでしょうか。)
 初めの数年間、私は、日常生活で指先をほとんど使わず(例えば、料理上手な老婦人でも、野菜の千切り・みじん切りはできません。)、五分間の正座にも激痛を覚えるドイツ人に、果たして日本と同じ稽古を要求してよいものか、とても懐疑的でした。そして、客のマナーを学ぶための稽古というものを、大変な忍耐と共に自宅で一年以上試みましたが、それは、何の実をも結ぶことなく、中断することとなりました。その後の試行錯誤については、次回に書いてみたいと思います。
 ちなみに、二〇一一年は、私がドイツで茶の湯を紹介し始めて十年目の年になります。
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