川上不白は享保四年(一七一九)、紀州新宮に水野家の家臣川上家の次男として生まれた。水野家は紀伊藩江戸詰家老職にあり、江戸に仕官した不白は、十六歳の時に主君の指示により、水野家茶頭職になるために表千家七代如心斎の元で修業を続けた。
茶の湯は当時、社交接待、稽古事として大衆化の時代に入り始めていたが、不白は師如心斎から茶の湯のあるべき姿を学んだ。延享二年(一七四五)、如心斎より茶湯正脈が授与され、寛延三年(一七五〇)には真台子が伝授された。
江戸に帰府した不白は、水野家茶頭職としての活動を始め、江戸の武家社会に千家流の茶を伝えた。現在、各地に江戸千家の茶が伝承されているのも、当時江戸に集る大名やその家臣により不白の茶が受け入れられ、各々の国に持ち帰られたことによる。
安永二年(一七七三)、五十五歳になった不白は嗣子自得斎へ水野家茶頭職の家督を譲る。京都修行時代に師から授かった「宗雪」の安名を自得斎が名乗ることになり、この時以後、やはり京都修行時代に玉林院大竜宗丈和尚より授かった「孤峰不白」と名乗る。
不白は活躍の場をさらに広げ、江戸の町人文化の影響を受けながら、京都とはまた違った江戸前の茶風を作り上げ、江戸の一般庶民の間にも広めていった。
不白は当時としては九十歳という稀にみる長命でありながら、文化四年(一八〇七)に没するまで活動し、長寿茶人としても幅広く人気を博した。今日、晩年に集中する数多くの遺墨ほか茶碗、茶杓等の遺作からも不白の人物像が浮かび上がってくる。
不白は生前に自ら菩提所とした日蓮宗安立寺に葬られている。以後、安立寺には、不白の子孫、川上姓を名乗る高弟、親族の墓が立ち並び今日に至る。