不白は、江戸の水野家茶頭職となるために、京都の千家如心斎のもとで長期間にわたり修業を続けた。そこで修得したことについては、如心と不白、に焦点があてられた研究が進み解明されてきている。
如心斎の茶道観、如心と不白の間柄を研究する尤も重要な資料としては『不白筆記』があげられる。同書には、師如心斎より伝えられた茶道の奥義が多様に書き記される。
この書物には表紙らしいものがなく、書名は判明しない。一般には『不白筆記』と称されているが、また別に『啐啄󠄁斎に与ふるの書』とも呼ばれている。不白は、覚え書、記録、メモ帳として書き記してはいるが、その一行一行は、師如心斎から学んだことを啐啄󠄁斎に伝えるために書かれた。
今日では、如心から啐啄󠄁斎への(秘)伝書、という本来の目的が見失われがちである。一般の茶書ではない。
宝暦元年(一七五一)、如心斎没(当時不白三十三歳)、嫡子宗員(啐啄󠄁斎)は、いまだ八歳であった。既に江戸に帰任していた不白は、江戸と京都を往来。師になり代わり、宗員(啐啄󠄁斎)をもり立てた。宝暦八年(一七五八)、不白は如心斎七回忌のために上京。啐啄󠄁斎は十五歳であったが、その前年に表千家八世を襲名している。如心斎より修得した茶道の奥義を書物として筆に秘めて伝えたのもこの頃と思われる。
以後の啐啄󠄁斎と不白との交流についての主な資料は、茶会記である。『不羨斎宗雪茶会之附』(写本)、『江戸諸方茶會之附』(写本)によれば、明和四年(一七六七)年より明和六年(一七六九)に集中している。明和四年、東海寺琳光院勧進茶会終了の年、不白は、自宅黙雷庵に啐啄󠄁斎を招く。また、啐啄󠄁斎が不白を招いている茶会記も写本として残される。明和四年は、如心斎の十七回忌。供養の茶事として催されていたのであろう。一客一亭の釜も掛けられた。明和六年に至るまで、啐啄󠄁斎、不白、同席の茶会記も残されている。
時を経て、安永四年(一七七五)、如心斎二十五回忌のために不白上京し、啐啄󠄁斎より茶事に招かれる。また不白亭主の茶会記も残されている。
啐啄󠄁斎との交流は、後見人としてのつながりから、江戸と京都と離れながらも、折にふれて互いに茶事に招き招かれる、という結びつきとなっていた。
文化四年(一八〇七)十月四日、不白八十九歳にして没する。啐啄󠄁斎は、翌年の文化五年十月六日没。活躍の地は離れながらも両者の交流の歴史は長い。