本年(平成十八年)は流祖不白(享保四年〜文化四年 九十歳)の二百遠忌にあたります。不白は紀州新宮に生まれ、紀伊藩江戸詰家老水野家の家臣として表 千家七代如心斎の下で茶の湯の修業をし、紀伊藩水野家の茶頭として江戸の武家社会、町人社会に茶を伝えました。
現在、各地に江戸千家の茶が伝承されているのも、当時江戸に集まる大名やその家臣により不白の茶が受け入れられ、各々の国元に持ち帰られたことにより ます。
また不白自身も江戸の町人文化の影響を受けながら、京都とはまた違った江戸前の茶風を作り上げ、江戸の一般庶民の間にも広まっていきました。
この年に不白の二百遠忌を迎えるに当り、あらためて流祖としての不白を思い起こし、江戸千家社中による礼拝の年としたいと思います。
安立寺は流祖不白が生前に菩提所とした日蓮宗の寺である。京都の本法寺(開山日親)を本山とし、「寺覧」によれば寛永七(一六三〇)年に本法寺十六世鶴林院日養上人によって創建されている。
東京谷中に在り、ここには江戸期以来の日蓮宗の寺が集っていて寺町として今もって往時の様子が漂う。
不白が安立寺を菩提所としたのは、もともと不白の生家が日蓮宗(新宮本廣寺)であること。また京都の如心斎のもとでの修行時代、千家のすぐ向かいにある本法寺の中興ともいわれる日詮上人とも親交のあったことなどが考えられる。
安永期、紀伊藩水野家の茶頭職としての家督を次代の自得斎に譲り、神田明神の蓮華庵にて居を構えていた不白は、諸藩の武家社会の力を背景に自らの威光を菩提所にも向けてゆく。安永七(一七七八)年に、数年前の江戸大火にて半焼した安立寺のために、まず惣門を建立寄進する。今日安立寺本堂正面に掲げられる扁額「常親山」は不白の筆跡で当時は総門に掲げられていた。(常親山は下総中山の法華経寺開山「日常」と本法寺の「日親」から一字ずつとったものである)。
そして、天明元(一七八一)年には既にあった開山日親堂を修理し、さらに日親堂の後方に三畳の草庵茶室「不白堂」を建てている。茶室は今日残らぬが不白堂の中の仏壇に納められていた木彫(中に写経が納められていたという)は残り、現在本堂内の脇に座して今もって気迫のある面相を彷彿とさせている。
さて同じ年の十二月に、境内に墓地一角を拝領して、すでに亡くしていた妻(安永四年十二月没)と子供たちのための墓を建てるとともに自らの生前の墓標としたのであった。
以後、安立寺には、不白の子孫、川上姓を名乗る高弟、親族の墓が立ち並び今日に至る。