私は便覧一〇六号の原稿の最後に、「結局ドイツ人に受け容れられるのは、このような《茶の湯に似た催し》が限界で、稽古が必要な茶の湯に足を踏み入れる人はこの先も現れないだろう」と書きました。これは、七年間の試行錯誤を通しての実感でしたが、その後思いがけない進展がありました。
この「尺八と茶の湯」という催しが予想以上の反響を得て終わった後、私は約三カ月間、鬱状態に陥りました。一年間、ひとりでドイツ人(友人も含めて)の誤解・無理解に対応しながら準備してきた緊張感と孤独感が、安堵によって緩むどころか、更に強まったのです。私の日常は、二人の思春期の子ども達との母子家庭を支える大黒柱として、毎日大変多忙なのですが、その多忙さも冷えきった心の外側を素通りしてゆきました。
そのような状況の中、さまざまな場所で茶の湯の紹介を続けているうちに、豊かな教養を持つ二人の男性が、「ぜひ稽古をしてみたい」と申し出てきました。私ははじめ、彼らの興味が長続きするとは思わなかったのですが、以来数か月間、シーボルト記念館の茶室で、ふたりとも正座に悪戦苦闘しながら、熱心にお点前やマナーを学んでいます。
昨年最後の十二月のお稽古(私の友人の男性も加わって、三人の男性達と致しました)の時のことです。茶碗が亭主に返って、正客から仕舞の挨拶がかかる場面で、「《どうぞ、お仕舞い下さい》ということばをそのままドイツ語に訳すと、かなりきつく響いて、穏やかな雰囲気にそぐわない」と、この三人の男性達(ひとりは三十代、ふたりは四十代です)から言われました。どのようにしたらよいか、率直に意見交換をした結果、正客がドイツ語で挨拶するなら、「結構なお茶をありがとうございました」と言えば、亭主はこれ以上お茶を点てなくてよいことが理解できる上、客の感謝の気持ちも伝わって和やかな空気が持続するだろう、というのが彼らの意見でした。
ドイツ人にも日本語で「オシマイクダサイ」と言ってもらう方法もありますが、意味のわからないことを心を込めていうことはできませんので、最上の方法かどうか、今ひとつ私には確信がありません。
「一座建立」のことばを知らなくても、その意味を既に深く理解していて、挨拶のひとことの作用を大切に考えながらお茶を楽しもうとしているこの人達に、私は深く心を動かされました。そして私も、この茶の湯の喜びに満たされたお稽古にふさわしい実力を身につけたい、と切に願っております。
【バックナンバー】
■ドイツからの便り No.1「ドイツ人に茶の湯を紹介する」
■ドイツからの便り No.2「Teezeremonie〈茶の湯〉のイメージ」
■ドイツからの便り No.3「ドイツで【尺八と茶の湯】」